イエスの権威
マルコ福音書4章35~5章20節

1.導入

みなさま、おはようございます。これまで、二回にわたってイエスが語られた「たとえ」について学びました。これらのたとえは、実際には「神の王国」に関するもので、イエスはご自身が宣べ伝えた神の王国、神の支配がどのように地上世界に実現していくのか、そのことを特に種蒔きというありふれた農作業の光景を題材にしながら語られたのです。神の支配は、人間の目から見ればちっぽけなイエスの活動の中ですでに始まっており、それはいずれ、だれもが無視できないような大木のように成長する、それがこれらのたとえのエッセンスでした。

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イザヤ書における王
イザヤ書42:1-9
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日は先月に続きイザヤ書からのお話です。イザヤ書に示されている王というのはどのような王なのかを見てみたいと思います。主イエスには、キリストとしての三つの職務がある、と言ったのは宗教改革者カルヴァンです。三つの職務と言っているのは「預言者、祭司、王」の三つです。預言者としての役割、祭司の役割はわかりやすいのですが「王」の役割は具体的にはイメージできません。主イエスの十字架上での死は世にいう「王」とは似ても似つかない、みじめなものであったからです。そのため、王であるのを示されたのは十字架によるのではなく、復活によるのである、とか、王の役割・職務が十全に示されるのは将来に予定されている主イエスの再臨、最後の審判の時、である、とか、正直なところ言い訳がましい説が言われます。王たる主イエスのいわば原型がイスラエルの歴史にあるとすれば、イザヤ書に示された王がその理解を助けるものになるのではないか、ということで、「イザヤ書における王」というものを見てみたい、と思うのです。

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さらなる二つのたとえ
マルコ福音書4章21~34節

1.導入

みなさま、おはようございます。前回から、イエスのたとえ話について学んでいます。マルコ福音書4章には三つのイエスのたとえが収録されていますが、それらはいずれも「種」に関するものです。「種蒔きのたとえ」、「自ずと成長する種のたとえ」、そして「からし種のたとえ」です。これらはたとえなので、文字通りの農作業の描写ではなくて、何か別のことを語っているのですが、その別のことというのが「神の王国」、「神の支配」です。イエスは「神の王国の到来が近い」というメッセージと共に福音伝道を始めましたが、どのようにそのイエスの言葉が実現していくのか、それを教えるのがこれらのたとえなのです。

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種蒔きのたとえ
マルコ福音書4章1~20節

1.導入

みなさま、おはようございます。9月に入りました。早いもので、マルコ福音書からの講解説教も今日で14回目を数えることになりました。マルコ福音書は16章まであるので、まだその三分の一も終えていませんが、マルコ福音書の中でイエスのガリラヤでの活動を記録している部分に限って考えれば、今日の4章はちょうどその真ん中、ガリラヤ宣教の折り返し地点ということになります。そしてこの4章というのはマルコ福音書の中でも独特の意味合いがあります。

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イエスの反対者たち
マルコ福音書3章20~35節

1.導入

みなさま、おはようございます。今年の夏は大変厳しいものでしたが、ようやく夏の盛りを越えたように思います。8月も今日が最終主日になります。さて、前回の説教で、マルコ福音書3章7節からイエスのストーリーは第三幕に入った、というお話をしました。三幕は3章の終わりまで続くのですが、そのテーマは「新しいイスラエル、新しい神の家族」です。福音を宣べ伝え、人々の病を癒すイエスをガリラヤの民衆たちは歓迎しますが、しかしイスラエルの宗教的なリーダーたちはイエスを認めようとはしません。それどころか、イエスを自分たちの権威に対する脅威と見なし、イエスを滅ぼそうという決意を固めていきます。そこでイエスは、これら宗教的リーダーたちが率いてきたイスラエルに代わる、新しいイスラエルを創設する動きを始めます。そこでイエスは12弟子を呼び集め、彼らを新しい12部族、新しいイスラエルのリーダーに任命します。そうしてイエスは、古いイスラエルのリーダーたちとの対決姿勢を徐々に明確にしていきます。

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大国の狭間でのイスラエル信仰
イザヤ書7:14-25
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日と来月はイザヤ書からお話させていただきたい、と思います。イザヤ書は言わずと知れた、聖書における最大の預言書です。66章ありますが、これがちょうど新旧約聖書の文書総数66と一致していて、イザヤ書を39章までと40章以降に分けると、それが旧約聖書と新約聖書の文書数にも一致します。実はイザヤ書は39章までと40章以降では成立年代が相違していることがほぼ明らかであり、39章までの著者を第一イザヤ、40章以降を第二、第三イザヤと称しています。39章までは預言者イザヤが預言を述べ伝えた時期の歴史に密着した話です。もちろん歴史叙述そのものではありませんが、預言者イザヤが当時の複雑な国際情勢にあって王やイスラエル特にユダ王国の民に向かっていかなる言葉を語ったかが記されています。それはイザヤが主なる神より預かった言葉でした。

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拡大する宣教
マルコ福音書3章7~19節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は猛暑があり台風の接近がありと、大変な1週間でしたが、こうして再び共に集まり、礼拝できることに感謝です。今日もマルコ福音書からイエスの宣教について学んで参りましょう。さて、今日の3章6節から3章の終わりまでは、マルコ福音書の第三幕とも呼べる箇所です。第一幕は1章です。この1章は、イエスが歴史の舞台に登場する、そのいきさつを描いています。全く無名の青年であったイエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたときに神からヴィジョンを与えられ、自分の天命、使命を悟ります。それから四十日四十夜の断食を通じて、最大の敵であるサタンの誘惑に打ち勝って、ますます自らの使命を確かなものにしていきます。それからイエスはガリラヤ宣教に乗り出します。イエスは神の王国、神の支配の到来を宣言し、新しい教えを伝え、悪霊に憑かれた人を悪霊から解放し、病の人々を癒しました。この新しいヒーロー、力ある業を行うイエスを人々は熱狂的に迎え入れる、これが1章の内容でした。

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安息日の主
マルコ福音書2章23~3章6節

1.導入

みなさま、おはようございます。8月に入りましたが、今週は再び猛暑が続く予定です。そんな中、今月もマルコ福音書をじっくりと読んでまいりましょう。先週のテーマは「断食」でしたが、今日のテーマは「安息日」です。ユダヤ教、そしてキリスト教が広く人類に与えた良い影響、恩恵の一つに、安息日が挙げられると思います。私たちは今では週休二日が職場や学校では当たり前になっていますが、日本がキリスト教国から強い影響を受ける前の江戸時代では週一日の休みすらありませんでした。「盆暮れ正月」という言葉があるように、奉公人の休みはお盆と年末年始だけで、あとはずっと働いていたのです。藪入りという言葉もありますが、それによると休みは一年間でたった二日でした。今では信じられないことですが、これが日本の歴史の真実です。

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断食と祝宴
マルコ福音書2章18~22節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日もマルコ福音書からイエスの伝道について考えてまいります。今日のテーマは「断食」です。皆さんは断食をしたことがあるでしょうか。近ごろは、「プチ断食」、つまり本格的な断食ではなく、一食だけ抜くことが健康や美容に良いということで、軽い断食に取り組んでおられる方も少なくないと聞きます。その一方、日本では宗教上の理由で断食をする、というケースはあまりないように思います。日本の伝統的な宗教である仏教では、修行中のお坊さんはともかく、檀家の信徒さんが日常生活の中で断食をするという話は聞いたことがありません。イスラム教では「ラマダン」という期間中に断食をしなければなりませんが、日本でイスラム教徒の人はほとんどいないので、私たちもテレビなどでしかそれを知ることはありません。では、キリスト教は、といえば、特にプロテスタント教会では「断食」を定期的に行っている教会というのはついぞ聞いたことがありません。「断食」というと、修行というイメージがあるからかもしれませんが、プロテスタント教会では修行らしきことはほぼ全くしないので、断食にもなじみがないのかもしれません。カトリック教会では断食をするようですが、プロテスタントはアンチ・カトリックということで始まったので、むしろ断食には否定的なのです。

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罪人との共食
マルコ福音書2章13~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。また暑さが戻ってきましたね。今日もマルコ福音書から、イエスの伝道活動を見て参りましょう。さて、前回の説教から、マルコ福音書のトーンといいますか、流れが変わってきたのにお気づきでしょうか。といいますのは、マルコ福音書1章までは、ガリラヤで宣教を始めたイエスは、常に人々から好意的に迎えられました。それまでまったく無名の青年だったイエスは、その力強く新しい教えで人々を惹きつけました。また、イエスは肉体や精神を病んでいる人々を次々と癒していきました。人々は、すい星のように現れたこの不思議な青年を熱烈に歓迎し、自分たちのところに何とか引き留めようと一生懸命でした。

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