1.序論
みなさま、おはようございます。第二サムエル記を読み進めて参りましたが、前回はサムエル記全体の中でも重大な分岐点となる箇所でした。それは、ダビデが途方もない罪を積み重ねていく場面でした。彼は自分のために命がけで戦っている兵士の妻を寝取ってしまい、その罪を隠すためその勇敢な兵士を戦場で謀略によって殺します。罪を隠すためにさらなる罪を重ねていく、そのような泥沼にはまっていくダビデの行状を見て参りました。
驚くべきことに、その間、ダビデは神のことをすっかり忘れてしまっていたようでした。少なくとも、ダビデは神がすべてを見ているという意識を失っていました。今やダビデは絶対権力者として、まるで神のごとくなんでも好きなように振舞えると思っているかのようでした。そして、自らの罪を暴く恐れのある人を排除した後は、何食わぬ顔をして日常生活に戻っていきました。もちろん、ヨアブのような人物はすべてお見通しだったでしょうが、ダビデはヨアブが自分を裏切ることはないと確信していたようです。しかし、ダビデは預言者によって、神にはすべてがお見通しであることを再び気づかされることになります。今日はダビデが自らの罪に直面させられて、どのように行動したのかを考えて参ります。
ダビデは当時の基準でも、また21世紀の現代の基準でも、到底赦されない、非常に重大な罪を犯したのですが、にもかかわらず多くのクリスチャンはダビデに同情的な方が多いように思います。人間はみな罪人ではないか。ダビデも人間だったのだ。ダビデは悔い改めたではないか、その姿勢は信仰者の鑑ではないか、と考える方も少なくないと思います。今日の場面で確かにダビデは「私は主に対して罪を犯した」と告白しています。神もそれを見逃してくださった、と預言者ナタンも言っていますので、ダビデの悔い改めは神も認めた本物の悔い改めではないか、と私たちはダビデに同情、あるいは共感さえするかもしれません。そしてこんな大きな罪でさえ、神は赦してくださるのか、という安心感を覚えるかもしれません。
ダビデの悔い改めが本物だと思える大きな理由の一つは詩篇の存在でしょう。詩篇51編はバテ・シェバ事件の後にダビデが歌ったものだとされていますが、その胸を打つ悔い改めの言葉を聞いて、ダビデこそ本物の信仰者、神の人ではないかと私たちは思うのです。しかし、しばしば言われているように詩篇のダビデの作と言われているものは、実際には後世の人々がダビデを偲んで詠んだもの、あるいはダビデの気持ちになって詠んだものだとされています。したがって、それはダビデの作ではない可能性の方が高いのです。そして、もしそれがダビデの手によるものだったとしても、この歌を詠んだからダビデの悔い改めは本物だったとは必ずしも言えないように思います。なぜなら、悔い改めは言葉ではなく行動によってこそ示されるべきものだからです。今後のダビデの物語を見ていくと、彼は自分自身の罪に向き合うのを避け続け、そのために彼の家族はバラバラになっていくのが分かります。そうした姿を見ていると、ダビデの悔い改めとは何なのか、と考えさせられてしまいます。
そもそも、悔い改めとは誰に対してするべきものなのでしょうか?詩篇51編を読みますと、ダビデの罪は神に対して、神のみに対してなされたものだということが強調されています。ダビデも、自分は神に対して罪を犯したと告白しています。しかし、ダビデが罪を犯したのはバテ・シェバであり、さらには彼女の無実の夫であるウリヤに対してだったのではないのでしょうか?サムエル記を読み進めても、ダビデが死んでしまった、いや彼自身が殺してしまったウリヤに対して詫びる気持ちが少しも表されていないのはどういうことなのでしょうか?この問題について、私も印象深い思い出があります。私が英国に留学中、熱心なクリスチャンの韓国の友人がいました。彼と罪の赦しの問題を話し合っているときに、彼はある有名な韓国の映画の話をしてくれました。それは「シークレット・サンシャイン」という映画です。恥ずかしながら私は未だにこの映画を見たことはないのですが、あらすじはだいたい聞きました。それは、息子を殺されたシングルマザーが、絶望の中で悩み苦しんでキリスト教に出会うという話です。彼女はそうして信仰を持つようになります。そして、自分は神に赦されたのだから、息子を殺した犯人のことも赦さなければならないと思うようになり、意を決して殺人犯に面会に行きます。そして、その殺人犯の相手に「私はあなたを赦します」と言おうとした矢先に、その男が彼女に「私は赦されている!」と告げるのです。もちろん、私は神に赦されている、という意味です。彼は平安に満ちた顔をして、私は神に赦されている、あなたのことも祈っていますよ、と告げるのです。私が赦していないのに、どうしてあなたが赦されるのか?彼女は衝撃を受けて気を失ってしまいます。その後のストーリー展開の詳しいことは知りませんが、大体想像は尽きます。私の韓国の友人も、この映画を見て「罪の赦しとは何か?」と考えてしまったそうです。
ダビデの話に戻ると、このサムエル記の物語の展開では、ダビデは神に対しては罪を認めて赦しを乞いますが、自分が直接過ちを犯した人に対して償いや悔い改めをしているようには見えないのです。すべてを神と自分の間の問題に還元しようとしているように思われます。私がダビデの悔い改めに疑問を抱くのはそのためです。「罪」の一つの定義は神の掟を破ることです。ですからあらゆる罪は神に対して犯されると言えます。しかし、姦淫や強姦、詐欺や殺人で直接的な被害に遭うのは神ではなく人です。ですから、神を冒涜するような言葉を口にするというような罪は神に謝罪すべきですが、人に対して犯した罪はその相手に対して謝罪する必要があります。ダビデの場合は、殺してしまったウリヤに対してはもはや詫びることができませんので、補償すべき対象は遺族のバテ・シェバということになりますが、しかしそのバテ・シェバはダビデの欲望の対象でもあります。ダビデはバテ・シェバを手に入れ、彼女もそれを受け入れているように見えます。しかし、ではウリヤはどうなってしまうのか、彼のことは忘れ去ってよいのか、という疑問が生まれます。しかし、神はウリヤのことを忘れてはいませんでした。神がウリヤのことを大切に思っておられるのは、これから見ていくナタンのたとえを見れば分かります。また、ナタンは神がダビデを赦したとは言っていないことに注意しましょう。神は見過ごした、とだけ言っています。本来なら罰するべきダビデの罪を罰しない、見過ごすということです。それはダビデを赦したというより、むしろ先にダビデと結んだ契約、つまり罪を犯したからといってダビデの王位を取り去ることはしないという約束を守ったということです。そのためにダビデは死刑になることも、退位させられることもありませんでした。しかし、それでも神はダビデに罪の刈り取りを要求し、ダビデはその後の人生でまさに罪の果実を刈り取ることになるのです。それでは、今日のテクストを読んで参りましょう
2.本論
では12章の1節からです。サムエル記の記述では久しぶりに「主」が登場します。もちろん、主・神はいつでもどこでもおられるのですが、ダビデの意識から主のことが忘れ去られていたので、こんなに久しぶりの登場になるのです。神はダビデのしていることを黙ってご覧になっていたのですが、ダビデがウリヤ殺害をなかったもののようにして普通の生活に戻ろうとしているのをご覧になって、もはや黙ってはいられなくなったのでしょう。預言者ナタンをダビデのところに遣わします。しかし、ナタンはいきなりダビデのことを責めるわけではありません。むしろ、全然関係のない話を始めたように見えます。それは、ある気の毒な貧しい人の話でした。この貧しい人は小さな子羊を大切に育てていたのですが、もう一人の金持ちの男がいて、彼は羊と牛をたくさん持っていたにもかかわらず、羊を屠る必要があったときに自分の家畜を惜しみ、たった一匹の子羊しかもっていなかった貧しい男からその子羊を取り上げてそれを屠ってしまったという話でした。
読者の方々は、この貧しい男がウリヤで、金持ちがダビデその人だとすぐに気が付くでしょうが、驚くべきことに当のダビデはまったくそれに気が付いていません。ここからも、ダビデはどうもウリヤのことで良心の呵責に苦しみ続けていたとは思えないのです。自分の行いを心の中で密かに悔やんでいたとしたら、ナタンが自分のことを仄めかしているのだとすぐに気が付いたでしょう。しかしダビデはナタンの話を聞いても、それが自分のことだとは全く思わなかったのです。ダビデは愚かな男ではありません。それどころか大変賢い男です。それゆえ、この時の彼の鈍感さには驚くべきものがあります。それどころか、ダビデはナタンのたとえ話を本当の話だと思い込み、この金持ちの男の非道な行いに立腹します。そして、貧しい人から子羊を奪った男に死刑を宣告し、さらに貧しい男に四倍にして償いをすべきだと命じます。モーセの律法に照らすならば、羊を盗んだ人が死刑だというのは重すぎる罰であるかもしれませんが、四倍にして償うというのは律法の教え通りです。ダビデはこの羊泥棒の金持ちに重すぎる刑罰を科していることになりますが、この男が実はダビデだと分かっている人には、ダビデの命じた罰が実は律法通りだということは明らかでした。モーセの律法によれば両者が同意の上で姦通した場合は男女とも死刑、強姦の場合は男だけが死刑になるべきだからです。ダビデとバテ・シェバの場合にはダビデが一方的に襲ったのか、あるいはバテ・シェバの方にもある程度その気があったのかというのは正直よくわかりません。聖書テクストからは、どちらの解釈からもあり得るように思います。しかし、いずれにせよダビデは死刑に当たる罪を犯していたのです。ですから、ダビデは図らずも自らの犯した罪に対して正しい裁きの宣告を下していたのです。
ダビデがそのような裁きの宣告をした後、預言者ナタンは爆弾発言をします。ダビデに向かい、「あなたがその男です」と宣告したのです。ナタンはダビデの罪を白日の下に暴き出し、こう宣告します。
「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげずみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。」主はこう仰せられる。「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の下で、このことを行おう。」
これが神の裁きの言葉でした。注意していただきたいのは、その後にナタンが神はダビデの罪を見逃してくださったと言ったにもかかわらず、神がここで語った裁きがすべてダビデの身に起きるということです。文字通りに、「その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる」という預言はそのまま成就することになります。このことから見ても、神はダビデの悔い改めの言葉にもかかわらず、ダビデを単純に赦したわけではないのが分かります。
ともかくも、ダビデもこのナタンの言葉にハッとし、「私は主に対して罪を犯した」と告白します。ナタンはその言葉を受け入れますが、しかしダビデとバテ・シェバの不義の子は死ぬだろうと宣言します。ダビデはその子の命が助かるようにと神に懇願し、断食をします。しかし、その甲斐なくダビデとバテ・シェバの最初の子どもは死んでしまいます。とはいえ、ダビデはその後はさばさばとしたもので、子どもを失って悲しんでいるバテ・シェバのところに行き、そして二人目の子どもが生まれます。その子こそ、あのソロモンです。
それから再びヨアブが登場します。ヨアブはダビデに代わってアモン人討伐を進めていましたが、一番最後の手柄をダビデのためにとっておきました。ここらへんもヨアブは抜かりがないというか、したたかです。上司というのはあまり部下が手柄を立てると部下を煙たがるものです。その典型がサウル王とダビデの関係で、サウルも若き武将のダビデの武勲を妬み、ダビデを殺そうとしました。ヨアブはそこら辺をよく心得ていたので、一番おいしいい手柄をダビデに与えて主人のご機嫌を取っていたのです。ここからも、ダビデがヨアブの手の中で転がされていたのが分かります。
3.結論
まとめになります。今日はダビデがどのようにして自らの犯した罪と向き合ったのか、ということを考えて参りました。確かにダビデは、ナタンに自らが犯した罪を指摘された時にすぐにそれを認め、神の前に罪を告白しました。また、ダビデはサウル王のように王失格を宣告されることもありませんでした。しかし、ダビデが本当に悔い改めていたのか、また神がダビデのすべての罪を赦したのか、というのはこの時点ではまだ明らかになっていないというべきでしょう。なぜなら、悔い改めとはその行動を通じて表わされるべきものだからです。ダビデが自らの罪に真剣に悔い改めて、生き方を改めようとしていたのかどうかは、その後のダビデの歩みが明らかにするでしょう。
また、罪の赦しの問題もそう簡単ではありません。クリスチャンは、罪の赦しとは神が人を赦すことだと考えます。しかし、このダビデの一件から明らかなように、私たちが犯す罪とは他の人間に対して犯す罪がほとんどです。神を侮辱する言葉を吐く場合は、神が直接の被害者になるのでしょうが、私たちの行う詐欺や暴行、殺人や性的犯罪は人間を相手に犯すものです。罪の赦しは、こうした相手に赦されて初めて実現するものではないでしょうか。しかし、実際に自分が被害を与えた相手に赦してもらうことは大変に難しいことです。どんなに誤っても赦してもらえなかった、という経験をしたことは私たちも人生において一度や二度ではないでしょう。だから、相手に赦してもらうことは置いておいて、何でも赦してくれる神の赦しを受けることで満足する、というような心根がクリスチャンにないだろうか、と思わずにはおられないのです。もちろん、あらゆる罪は神の法を犯すことですから神に赦される必要があります。しかし、それに安住して自分が罪を犯した、損害を与えた相手からの赦しの問題を無視してはならないとも思います。相手に赦してもらうためには言葉だけでは足りません。誠心誠意の行動が必要です。償いきれないような罪でさえも、できるだけのことはすべきだということです。
ダビデの場合、彼が本当にウリヤに悪いと思っているのなら、彼が深く愛していたバテ・シェバをどうして自分の妻にできたのか、と私などは思ってしまいます。もちろん未亡人になったバテ・シェバが生活に困らないようにすべきなのは当然のことです。しかしそれと彼女を自分の妻にしてしまうこととは違うのではないでしょうか。ダビデは神に赦されたと思ってそれで満足してしまい、それ以上のことはしなかったように思えるのです。
私たちクリスチャンにとって、罪の赦しとは非常に大切な事柄です。そして、神は実際に私たちの罪を赦してくださいます。しかし、神の赦しだけを求めて、自分が罪を犯した直接の相手に向き合うことを拒むなら、それは本当の意味での悔い改めではないように思います。これは大きなテーマですので、これからサムエル記を読み進める上で、いつも念頭に置いておきたいことでもあります。ちょっと尻切れトンボに思われるかもしれませんが、この件について語るのは今日はここで留めておきたいと思います。お祈りします。
私たちを赦してくださる神様、そのお名前を賛美します。しかし、同時に私たちは自分が直接罪を犯してしまった相手に向き合う必要もあります。この問題は非常に深刻な問題でもありますが、そのことに向き合う力もお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン