ガリラヤの会堂にて
マルコ福音書1章21~28節

1.導入

みなさま、おはようございます。前回はイエスが四人の漁師たちを弟子として召し出したところを学びました。今回は、いよいよイエスが本格的な宣教活動をスタートさせる、そういう場面です。イエスはカペナウムというところに行って、そこで活動を開始します。カペナウムはイエスの宣教の拠点となる重要な場所なので、この地についてすこし解説しましょう。イエスが生まれ育ったナザレはガリラヤ湖畔の村ではありません。湖からはかなり離れた内陸の、むしろ隣国のサマリヤに近いところにありました。人口は数百人しかいない小さな村で、かなり引っ込んだところ、というイメージでしょうか。それに対してカペナウムはガリラヤ湖畔の町としてはかなり大きなもので、人口も1万人ほどでした。そこはローマの軍隊の駐屯地になっていましたので、今の日本で言えば米軍キャンプのある横須賀のような感じでしょうか。そこにはローマ帝国に代わって税金を取り立てる取税人たちの事務所があり、12使徒のひとりの取税人マタイもこの町でイエスに弟子になるようにと呼ばれました。それでも、カペナウムは都会と呼べるほど開けたところではありませんでした。そこは比較的大きな漁村ではありましたが、都市ではなかったのです。

ガリラヤで都市と呼べるほど大きかったのはセフォリスとティベリアという二つの都市だけでした。これら二つの都市は新しい都市で、イエスが「あの狐」と呼んだ領主ヘロデ・アンティパスによって建設されました。ヘロデ・アンティパスは、幼子イエスを殺害しようと幼児大虐殺をした、あのヘロデ大王の息子です。ヘロデ・アンティパスはローマ帝国の首都ローマで教育を受けてきましたので、ローマに心酔していました。そこで彼はガリラヤの州都となるティベリアを建設しますが、これはローマの二代目の皇帝ティベリウスにちなんで名付けた都市ですので、ローマ風の都市として建築されました。イエスはこのセフォリスやティベリアに行くことは意図的に避けていたように思われます。マルコ福音書には、イエスがこれらの大都市に行って伝道したという記事はまったくありません。大都市での伝道を好んだ使徒パウロとは対照的に、イエスは比較的小さな町や村での伝道をされました。これはイエスの宣教を理解する上でとても大事なポイントです。信者や支持者の数を増やしたいと思うなら、人口の多い大都市で宣教する方が効果的で効率的です。イエスも有名になって信者を増やすことが目的ならば、今の日本で言えば東京にあたるエルサレムを拠点にして伝道すべきだったでしょうし、また北部のガリラヤで伝道するにしても、東北地方の仙台に相当するようなセフォリスやティベリアで伝道して注目を集めたほうが信者獲得の早道だったでしょう。しかしイエスにとって重要なことは有名になることや信者の数を増やすことではなく、傷ついた人々、また傷ついた共同体を癒すことでした。当時のガリラヤで貧困に苦しんでいたのは都市部の人々よりもむしろ小さな町や村の人々でした。イエスは重税やローマ兵からの暴力・虐待に苦しんでいたガリラヤの小さな共同体を癒し、神の民として生きるための新たな活力を与えようとしました。イエスが大都市よりも小さな村々を渡り歩いたのは、単に彼が都会よりも田舎を好んだとか、そんな単純な理由からではなかったのです。カペナウムはそんなイエスが訪れた町の中ではかなり大きな町でした。イエスがカペナウムを宣教拠点としたのはその利便性もさることながら、そこが彼の愛弟子であるペテロとアンデレの住居があるところだったのも大きな要因でした。

さて、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人の弟子を召したイエスは、そのカペナウムで安息日に会堂に入っていきました。ユダヤ教の安息日は金曜の夜から始まりますので、イエスが会堂に行かれたのは土曜の朝ということになります。ここでイエスが行かれた会堂について少しお話ししましょう。会堂とはユダヤ教の教会のようなものか、と思われるでしょうが、おおむねそのイメージでよいと思います。会堂はシナゴーグとも呼ばれますが、10人程度の小規模なものから、かなり大人数のものまで、その規模は様々でした。カペナウムは比較的大きな町だったので、その会堂もそれなりの大きさだったでしょう。会堂では礼拝だけでなく結婚式や葬儀なども行われましたから、私たちのイメージする今日の教会堂とこの点でも似通っています。ユダヤ人は皆、生まれたときからユダヤ教徒として育ち、熱心な宗教的環境の中で成長していったので、ほとんどのユダヤ人は毎週安息日には会堂での礼拝に参加していました。私が7年間を過ごしたスコットランドでも、第二次世界大戦前は約8割の人々が日曜には教会に行っていたと言われます。しかし、キリスト教の衰退が著しいスコットランドでは、今では教会に行かない人のほうがずっと多い社会になってしまいましたが、イエスが活躍した当時のガリラヤは、戦前のスコットランドのようにほとんどの人が欠かさずに礼拝を守っていました。ガリラヤの人々は、学者でなくても熱心に聖書に書かれている律法を学び、日々の生活の中でそれを実践しようと励んでいました。律法を守ることこそ、自分の神への信仰の目に見える形での表現だと信じていたからです。また、当時は今のような印刷技術はもちろんありませんでしたから、聖書は大変貴重なもので、会堂にしか据え置かれていませんでした。ですから、人々にとって聖書を学べる唯一の場所であった会堂の、人々への影響力はとても大きかったのです。会堂での礼拝は、聖書朗読と説教が中心でした。しかし、今日の教会とは違い、ユダヤの会堂では毎週同じ牧師が聖書の連続講解説教をするというのではありませんでした。むしろ毎週違う長老たちや、招かれた人が説教をしていました。イエスは公生涯を始められたばかりとは言え、もうすでに注目を集めてきていたのでしょう、この新進気鋭の若者の話を聞いてみようということで、カペナウムの会堂での説教者として招かれたのです。今日の箇所は、そのカペナウムの安息日の一日の間に起こった出来事について記しています。

2.本文

さて、ではイエスが安息日になさった会堂での説教と、それに伴って起こった重大な出来事、事件と言ってもいいですが、それについて見ていきましょう。この日の出来事を理解するための一つのキーワードは「権威」です。イエスはご自身の権威を二つの事柄を通じて示しました。一つはその説教、教えを通じて、そしてもう一つは汚れた霊、悪霊を制圧する権威を通じてでした。この二つについてそれぞれ見ていきましょう。

まずイエスの説教、教えについてです。マルコは、「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」と記しています。この記述の意味するところはよく分かります。私も新約学者のはしくれなので、これまで何本かの聖書についての論文を書いてきました。それらの論文の目的の一つは、意味が難しい、分かりにくい聖書箇所について、その意味するところはこうなのだ、という一つの理解の仕方、解釈を示すことにあります。しかし、私のような権威のない学者がいくらこうだと叫んでも他の先生方がおいそれと私の解釈を受け入れてくれるわけではないので、ここで権威に訴えるわけです。つまり、私だけでなく他にも偉い先生、権威のある海外の学者たちが似たような見方をしているとか、あるいは現代だけでなく古代の教会教父と呼ばれる有名な学者もこういう見解を示していたというように、権威ある人々を援軍として呼ぶわけです。イエスの時代の律法学者たちも同じようなものでした。彼らは律法をどう解釈して、どのように実践するのかについて、いつも議論していたのですが、彼らも自説を主張する際に、権威のある先輩の先生方、「ラビ・ガマリエルはこう言っておられた」とか、「ラビ・エリアザルはこのように解釈していた」などと権威筋を例に引きながら自説を展開していました。しかしイエスはそのようなことはなさいませんでした。単に「私はこう言う」というように、ご自身の見解だけをそのまま述べられたのです。しかも、その語られる内容はありきたりの陳腐なものではなく、目の覚めるような、新鮮で新しい教えでした。そのイエスの教えがどんな内容だったか、というのは実はマルコ福音書だけではよくわかりません。マルコにはイエスの教えがわずかしか収録されていないからです。マルコの後にマタイ福音書が書かれたのは、山上の垂訓など、マルコ福音書には書かれていないイエスの重要な教えが含まれている福音書がぜひとも必要とされていたからでした。マルコ福音書は、イエスが教えられた内容よりもむしろその教え方、イエスの権威ある教え方のほうに読者の注意を向けさせます。イエスの教えを聞いた人々は、イエス自身の放つ権威のオーラに驚かされました。

そしてイエスには権威があるということを人々に決定的に印象付けたのが、その会堂での礼拝中に起こった出来事でした。なんと、イエスの説教を聞いていた聴衆の一人が狂ったように叫び始めたのです。この教会でもそうですが、だいたい説教中というのは静かですよね。説教中に舟をこぐ方はおられても、おしゃべりをする方はまずおられません。ですから、説教中に叫び出すというのがいかに異様であるのかが想像できるでしょう。周囲の人たちもその異様さに驚き、この人は汚れた霊、悪霊に取りつかれていると結論付けるしかないような、そんなひどい混乱状態に陥ってしまったのです。会堂で礼拝を守っていた人々にとっては大変なショックを受ける事件でした。今まで普通の仲間として礼拝を守っていた人の一人が悪霊に取りつかれているとしか思えない状態になったのです。ぞっとするような瞬間だったでしょう。一番安全で、聖なる空間だと思っていた礼拝の場にも、悪魔の力が忍び寄っているのか、という何とも気味の悪い気持ちにさせる出来事でした。しかし、もっと驚いたのはその悪霊さえも一言で追い払うイエスの権威でした。そもそも、この汚れた霊に取りつかれた人が叫び出したのは、その人の中にいる悪い霊がイエスのことを恐れたからでした。この霊はイエスには自分を滅ぼす力があることを知っていて、それゆえ恐怖のあまり大暴れして叫び出したのです。普通、私たち人間の方が悪霊や悪魔を恐れるわけですが、この場合は反対に悪霊の方がイエスを恐れているのです。この悪霊は、悪霊の世界の中でも頂点に君臨するサタンと比較すれば下っ端の霊だったと思われますが、彼には普通の人間には見えないイエスの力が見えていました。それは、その悪霊の力とは正反対の聖なる力、悪を滅ぼすことのできる神の力でした。イエスはこの霊に対し、「黙れ。この人から出て行け」と命じました。そすると、この悪霊はイエスの命令に従い、慌てて今まで取りついていた人から逃げ出していきました。繰り返しますが、この恐るべき出来事は、なんと礼拝中に起きたのです。その出来事を目撃した人たちには一生忘れられない強烈な印象を残した出来事だったことでしょう。

こうしてイエスは、マルコ福音書の中では初めて奇跡と呼べるような驚くべき御業を行いました。マルコ福音書がイエスの最初の奇跡として、悪霊払いを記録していることは大いに注目すべき点です。対照的に、ヨハネ福音書では、イエスが行った最初の奇跡はカナの婚礼の場で水をワインに変えるという非常に素敵な、心温まるような奇跡でした。それに引き換えこのマルコの悪霊払いという奇跡はおどろおどろしい壮絶なもので、またイエスの底知れない力と権威を感じさせるものでした。実際、マルコ福音書によればイエスがガリラヤ宣教中になさった行動の柱は悪霊払いと病の癒しの二つでした。しかも、当時は病の原因の一つが悪霊につかれてしまったためだと信じられていたので、イエスの行ったことの中で最も重要な業は悪霊払いだった、ということになります。イエスは自分だけでなく、十二弟子にも悪霊を追い出す権威を与えられました。ですからイエスとその弟子たちのガリラヤでの活動の柱は悪霊払いだったのです。

しかし、そう聞くと私たちは途方に暮れてしまうのではないでしょうか。私たちは悪霊払いなどというものを見たことがありません。また、精神を病んでいる人に「あなたは悪霊に取りつかれているのです。あなたから悪霊を追い払って治してあげましょう」などと言えば、その人からもそのご家族からも「なんて非常識でひどいことを言うのだ。もうあなたとは二度と会いたくない」と激しく拒絶されてしまうことは想像に難くありません。たしかに、ローマ・カトリックの総本山であるイタリアにはエクソシストと呼ばれる悪霊払い師が実際に存在し、彼らは今でも悪霊払いの儀式を行っています。しかし、彼らもそのような儀式を行うことには非常に慎重で、たくさん相談を受ける中でもほんのわずかなケース、例外的な場合にしかそのような儀式を行わないということです。しかし、イエスとその弟子たちは一度ならず、日常的に悪霊払いを続けています。逆に言えばガリラヤは悪霊につかれていた人たちで溢れかえっていたような印象を受けます。では、どうしてイエスの時代のガリラヤにはそんなにたくさんの悪霊たちが跋扈していたのでしょうか?ここでイエスの悪霊払いの意味を、当時のガリラヤの状況に即してよく考えてみたいと思います。

当時のガリラヤの人たちは、ある存在をおそれ、できればその存在を自分たちの住んでいる地域から追い出したいと願っていました。しかし、その恐ろしい存在とは悪霊ではありませんでした。今の日本でいえば、沖縄の方々がガリラヤの人々の気持ちを一番よく理解できるかもしれません。沖縄の人たちが、できれば出て行ってほしいけれど、そうはできないという存在、それは日本の中でも7割が集中している米軍基地です。アメリカ兵士が日本人の少女に暴行したという事件が起こるたびに、大きな問題になりますが、アメリカは再発を防止するといいながらも同じような事件が後を絶ちません。しかし、当時のガリラヤの人々は沖縄の人たちよりもずっと弱い立場に置かれていました。今の日本では米兵の起こした事件は全国的に報道され、社会問題になり、問題を起こした兵士も逮捕されますが、ガリラヤではローマ兵によるこうした事件が日常的に起こっても、大きく注目されることはなく、多くの人が泣き寝入りをしていました。ちょっとでもローマ兵に反抗すればひどい暴力を振るわれますし、勇気を出してみんなで反抗したらローマへの謀反として捕えられて十字架に架けられて殺されました。ローマから日常的に課される重税や暴力のために、ガリラヤの人々は内心に大きな怒りをため込んでいましたが、それを外に向けて吐き出すことはできません。そんなことをすれば、もっとひどい暴力にさらされるからです。外に向けて発散できない怒りは、しばしば自分自身に向けての暴力となります。自傷行為です。マルコ福音書には、自分で自分を傷つける哀れな男が登場しますが、その男はレギオンと呼ばれる悪霊に取りつかれていました。レギオンとはローマの軍団という意味です。ですからこの自傷行為を繰り返す男は、マルコ福音書によればローマ軍団に取りつかれていたということになります。何が言いたいかといえば、ガリラヤに溢れていた悪霊につかれていた大勢の人々の姿には、ローマという悪霊につかれて苦しんでいた多くの民衆の姿が二重写しになっていたということです。

イエスや弟子たちの悪霊払いの背景には、ローマという支配者たちに取りつかれて苦しんでいた人々の姿があるということは、当時の宗教的な世界観から考えても納得できることです。イスラエルの歴史を振り返ると、外国から侵略されて隷属させられるという歴史の繰り返しでした。バビロン、ペルシア、ギリシア、エジプト、シリア、そして最後にローマと、次々に支配者は変わりましたが、ユダヤは100年ほどの例外的な時期を除けばいつも外国に支配されてきました。私たち日本の歴史は、アメリカに占領された時期を除けば独立を保つことができたので、外国に支配されて植民地にされることの屈辱や痛みに鈍感なところがありますが、自分たちが唯一の神に選ばれた特別な民族であるという自負を持っていたユダヤ人にとって、いつも外国から支配されるというのは耐えがたい苦痛でした。そして、当時のユダヤ人たちは自分たちを支配する外国の背後には、神に反逆する天使たち、つまりサタンのような堕天使たちがいると信じていました。旧約聖書にはダニエル書という書がありますが、それによればイスラエルを支配したペルシアやギリシアの背後にはペルシアの天使、ギリシアの天使というのがいて、イスラエルを守護する天使であるミカエルと戦った、という記述があります。そう考えると、当時のユダヤやガリラヤを支配したローマ帝国の背後には、ローマに力を与える反逆の天使がいるはずだ、ということになります。イエスがローマの支配に苦しむガリラヤやユダヤの人々を救おうとすれば、目の前のローマ兵ではなく、その背後にいる悪の霊的な勢力をなんとかしなければならないはずです。ですから、イエスのガリラヤでの宣教が悪霊払いを中心になされた背景には、ローマによって植民地にされていたという政治的な状況がありました。イエスはこのような状況で追い詰められ、敵に対する怒りや絶望を内心に抱え込んだ結果、その怒りを食い物にする悪霊に囚われるというもっと悲惨な状態に落ち込んだ人たちを癒し、彼らが悪霊に支配される要因となった怒りや絶望から彼らを解放していったのです。悪の霊的な力は、マイナスの感情をため込んでいる人々に支配を及ぼしやすいので、イエスは悪霊を追い出すだけでなく、その人の心の傷も癒されたのです。むろん、彼らの内面の苦しみを癒してあげたからといって、ローマに支配されているという厳しい現実は変わりません。しかし、彼らが内面の健全さを取り戻すことで、イエスの掲げる高いヴィジョン、つまりローマの暴力には暴力で対抗するというのではなく、敵意に対して善意で応答する、敵をも愛する、ローマ兵に1ミリオン行けと命じられれば2ミリオン行く、そうして悪意を善意で乗り越えるというイエスの高邁な生き方に倣う勇気と力を彼らに与えることができたのです。

ここで注意したいのは、ガリラヤで悪霊に憑かれていた人々は健全な社会の中のごく少数の、例外的な異常者ではなかったということです。むしろ彼らは、社会全体を覆っていた病理を最も色濃く映し出した人たちだと言えます。つまり、正気だと思われていた人たちも一歩間違うと悪霊に憑かれた人たちのような状態に落ち込む危険と隣り合わせだったということです。ガリラヤ全体を覆っていた病理、あるいは悪い空気とは、侵略者であるローマへの激しい憎しみでした。ガリラヤでは繰り返しローマに対するパルチザン的な反乱・暴動が起こり、そのたびにローマからの惨たらしい武力によって鎮圧されてきました。しかし、イエスが宣教をされていたころから約40年後、抑圧された怒りが爆発し、ローマとの大戦争に突入し、その結果国土は完全に破壊され、多くの人は奴隷として売られることになりました。イエスの宣教の一つの目的は、ガリラヤの人々がその誤った道に突き進まないようにすることにありました。

そしてそのことは、私たちにとっても他人事ではありません。今日本の人たちは、毎日送られてくる海外の戦場からの強烈な映像に圧倒され、日本も周辺諸国に負けない力を持たなければならない、力には力で、武力には武力で、という空気に支配されつつあります。イエスの示した平和主義は、単なる理想論、あるいは悪い国々をのさばらせてしまうだけだ、と一笑に付されてしまうかもしれません。しかし、ローマに対して武力で対抗したユダヤ人たちは木っ端みじんに粉砕されましたが、ローマからひたすら迫害されて一切武力による抵抗をしなかったローマ帝国下のキリスト教徒たちは、ついにはローマ帝国をひっくり返してしまったのです。私たちはイエスの示された福音が、いかに平和の問題と深くかかわっていたのかを改めて考え直す必要があります。たしかにイエスの示す平和の道は何のコストも犠牲もないようなものではありません。それは十字架の道です。しかし、剣を取る者は剣で滅びると主イエスが言われたように、果てしのない暴力と報復の連鎖が私たちに平和をもたらすこともないのです。日本がかつてのガリラヤの人々のように、敵意や疑心暗鬼という悪霊に取りつかれるようなことがないように、私たち日本の教会は祈り、また和解の福音を宣べ伝えていかなければならないのです。

3.結論

まとめになります。今日はいよいよ公生涯をスタートさせたイエスと弟子たちが、ガリラヤの会堂で何をされたのかを学びました。イエスはそこで説教をしましたが、そのスタイルは有名なラビたちの意見を引用して「何々先生はこう述べておられる」と言うような話し方ではなく、ご自身の言葉で、権威を持って教えられました。しかもその内容は新しく、人々の世界観や生き方にインパクトを与えるようなものでした。しかし、そのイエスの驚くべき説教を聞いている時に、驚くべき事件が起きました。話を聞いていた聴衆の一人が、悪霊につかれたかのように叫び始め、イエスを恐れて震え上がったのです。しかもイエスがその人を叱りつけると、その人に取りついていた悪霊は直ちに逃げ出しました。これが、イエスのガリラヤ宣教の柱となる悪霊払いの最初の事例なのですが、当時のガリラヤには悪霊に取りつかれたように見える人が非常に多くいました。そしてその背後には、ローマに対する激しい敵意と、しかもその敵意を外に向けることが出来ずにかえって自分自身や身近な人々を傷つけてしまうという、痛ましい事情がありました。イエスは人々の絶望や怒りに乗じて人々の正気を奪っていた悪霊たちを人々から追い出し、彼らが新しい人生を歩み始めることができるようにしてくださったのです。

私たちの社会には悪霊や悪霊払いというようなことはないかもしれませんが、それでも理不尽な社会に押しつぶされ、敵意や怒りを自分にぶつけたり、あるいは「誰でもよかった」というような無差別殺人や暴行に及ぶ人たちが増えています。彼らは加害者であると同時に社会の病理の被害者とも言えます。こうした人々の心の闇や傷を癒せる方であるイエスとの出会い、そのような出会いを提供するために私たちも努めていきたいと願うものです。お祈りします。

御子イエス・キリストをガリラヤに遣わし、人々を苦しみから解放された主なる神様、そのお名前を感謝します。今朝は、主イエスがマルコ福音書によれば初めてカペナウムの会堂で説教をなさったときのことを学びました。主イエスはそこで悪霊に取りつかれていた人から悪霊を追い出し、彼を正気に戻されました。私たちの暮らす社会も度重なる困難や、将来への不安から集団的に間違った方向に進んでしまう危険を感じるものですが、どうか主が私たちを癒し、正しい方向に導き、平和への道を歩むための力をお与えください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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