それぞれの召命
ヨハネ福音書21章1~23節

1. 序論

みなさま、こんにちは。今日はヨハネ福音書の中でも大変有名で、またとても重要な箇所から恵みを受けて参りたいと思います。  

私たちは神との関係を言い表すために、いろいろな言い方をします。クリスチャンは「神の子」だと言われます。そこでは神と私たちとの関係が親子関係のように親密で温かい関係であることが言い表されています。親が子の成長を楽しみにしているように、神もまた私たちが子として成長するためになら、どんな努力も惜しまれない方なのです。

クリスチャンは「神の子」であると同時に、「神の僕(しもべ)」でもあります。この場合は、神は私たちの仕えるべき主人であるということが言い表されます。神が私たちを招いてくださったのは、親子としての親しい関係の輪に入れて下さるだけでなく、私たちに何らかの使命を与えるためでもあるのです。「召命」という言葉はそのことを端的に言い表しています。聖書でしばしば「召し」あるいは「召命」という言葉が登場しますが、この言葉のギリシャ語の意味は「呼ぶ」というものです。神は私たち一人一人を呼ぶのです。第一テサロニケの手紙5章24節には「あなたがたを召された方は真実ですから」という言葉がありますが、これを直訳すれば「あなたがたを呼ばれた方は真実ですから」となります。神を、そしてキリストを信じている人はみな神から呼ばれたのです。神は私たちを呼んで、そして何事かを命じます。それが「召命」です。しかも、私たち一人一人に与えられている使命はそれぞれ違うものなのです。一つとして同じものはありません。ですから、私たちは自分と神との関係を考える時に、自分に神から与えられた使命は何であるのか、また自分はその召しに応えて歩んでいるのかを常に問うていく必要があるのです。

今日はその召命の意味について、ヨハネ福音書に登場する二人の代表的な人物の生きざまを通じて学んでまいりたいと思います。一人はシモン・ペテロです。ペテロはイエスの12弟子の筆頭、リーダーでした。そしてもう一人がヨハネ福音書の著者です。私たちはこの福音書の記者のことを「ヨハネ」と呼びますが、この福音書では記者が自分のことをヨハネだ、と名乗っている箇所はありません。むしろ、「主が愛された弟子」という、どこか謎めいた呼び名で呼ばれています。この福音書には、誰が著者なのかが明示されている箇所が一か所あります。それが、今日お読みいただいた箇所のすぐ後の一節、24節です。

これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。

とありますが、その弟子というのが「主が愛された弟子」なのです。さて、今日お読みいただいた箇所でもペテロと「主に愛された弟子」の二人は対比されていますが、他の箇所でもこの二人はしばしば対照的な描かれ方をしています。もっとはっきり言えば、「主に愛された弟子」はペテロよりも信仰面で勝った人物として描かれているのです。たとえば、イエスが逮捕されて皆逃げてしまった後も、ペテロとこの弟子の二人だけはイエスの後をついていきますが、ペテロはその時に身元が判明してしまいそうになり、三度もイエスを知らないと否定しました。他方、主に愛された弟子の方は主を裏切ることなく、女性の弟子を除けばただ一人だけ主の十字架まで付き従い、十字架の上にいるイエス様から母マリアの世話を頼まれています。

また、イエスの墓が空になっていると聞いたときにペテロとこの弟子は二人で墓まで走っていきましたが、ペテロは何が起きたかわからずに戸惑っているときに、この弟子は「見て、信じた」と書かれています。このように、主に愛された弟子は、ペテロとの比較で言えば、より主に忠実な人物であり、信仰の洞察においても優れた人物として描かれていると言えるでしょう。この「主に愛された弟子」とペテロとの対比は、今日の聖書箇所でも重要です。このことを念頭に置きながら、今日の箇所を読んでまいりましょう。

2. 本論

 今日お読みいただいた21章は、ヨハネ福音書において独特な箇所です。ヨハネ福音書は、ある意味では、20章で終わっていると言えます。20章の終わりには、この福音書が書かれた目的がはっきりと示されています。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

このように書かれています。この言葉でヨハネ福音書が終わったとしても、なんら不自然なことはなかったでしょう。では、一度結びの言葉が書かれた後に、なぜ21章が加えられているのでしょうか?それは、21章が一種のエピローグのような役目を担っているのです。一般的に、エピローグというのは、物語がいったん完結した後に、それらの登場人物がその後どうなったかについて物語ることが多いのです。私は子どもの頃、シャーロック・ホームズやアガサ・クリスティーの推理小説が大好きでしたが、これらの推理小説では事件が解決した後、それぞれの登場人物がその後どんな人生を送ったのかを簡単に記すエピローグが書かれています。事件に巻き込まれた人々が、その後は幸せに暮らしました、ですとか、そのような情報が書かれているのです。このヨハネ福音書21章も、そうしたエピローグであると言えます。ヨハネ福音書では、イエスが十字架で苦難を受けられて、その後に復活するという、地上におけるミッションを成し遂げるところまでが20章までに描かれています。では、その後に残されたイエスの弟子たちがどうなったのか、その運命を記すために21章が書かれたと言えるでしょう。

 このエピローグの主役の一人が、先ほども言いましたようにペテロです。ペテロはイエスから可愛がられ、12使徒のリーダー的な存在でしたが、彼は深い挫折を経験した使徒でもありました。その彼が、主の復活後に立ち直り、再び自らの召命を確かなものとされる、というのがここでの重要なテーマです。ペテロはかつて、主イエスと最後の晩餐を食していた時に、イエスにこう言いました。

すると、ペテロはイエスに言った。「たとえ全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」

しかしその僅か数時間後、いざイエスが捕まって、自分の身に危険が及ぶと、イエスのことなど知らないと三度も否みました。マルコ福音書14章にはこう書いてあります。

「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知りません」と言った。

と、のろいの言葉と共に、誓ってイエスを知らない、とまで言い張ったのです。マルコ福音書とヨハネ福音書は、イエスの受難の出来事をそれぞれかなり異なる角度から描いていますが、このペテロの三度の否認については完全に一致しています。それだけ、このペテロの否認の話は初代教会の信徒たちの間で有名な話だったのでしょう。

このような苦い経験をしたペテロですから、主イエスが復活したことにはもちろん喜びましたが、しかし自分がもう一度主の弟子として世界に福音を伝えるという任務にはしり込みしてしまいました。自分の恥ずかしい行動を思い出して、すっかり自信を失ってしまったのです。ルカ福音書24章によれば、復活の主イエスは弟子たちに、上よりの力、つまり聖霊を受けるまでエルサレムを離れてはならないと命じられていたのに、ペテロはエルサレムを離れ、生まれ故郷のガリラヤに戻って昔の漁師としての仕事に戻ってしまいました。つまり、イエスの弟子という召し、使命を捨てて、いわば職場放棄をしてしまったのです。かつて自信満々だったペテロは、今や自信喪失の状態にありました。

そのペテロのところに復活の主が現れました。それはかつてガリラヤで漁師だったペテロをイエスが召し出した時とまったく同じ状況の再現でした。このヨハネ福音書21章はルカ福音書5章の話とそっくりなのです。あの時も、夜通し漁をしても魚一匹釣れなかったペテロたちの前に現れたイエスの言葉に従うと、おびただしい魚が釣れました。そして主はペテロに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われたのでした。そのペテロが、挫折の後に人間ではなく魚をとる漁師に戻ってしまいそうになった時に、彼の前に主イエスが現れたのです。今回も、ペテロは夜通し漁をしても魚一匹取れませんでした。しかし、主の指示に従って網を右側に下ろすと、153匹もの魚を取ることが出来たのです。最初ペテロはこの人物が主だとは気が付きませんでしたが、この驚くべき出来事を通じ、かつて自分が主から召し出された時のことを思い出し、この不思議な人物こそ復活の主であると気が付いたのでした。この場面に続いてなされたイエスとペテロの間の会話が、今日の聖句のハイライトです。

イエスはまずペテロにこう問います。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」

「この人たち」とはその場に居合わせた他の弟子たちのことです。すなわち、12弟子のゼベタイの子、雷の子と呼ばれたヤコブとヨハネ、主の復活を疑ったのちに信じたあのトマス、ナタナエル、そして「主に愛された弟子」ともう一人の名前の分からない弟子の6名です。イエスはペトロに、「ここにいるこれらの弟子たちが私を愛する以上に私を愛するか」と聞いたことになります。しかし「この人たちが愛する以上に」と訳されている部分の原文では、たった一言トウトーンという言葉なのです。この言葉は英語のtheseに当たる代名詞なのですが、それは「これらの男たち」と訳すことも出来ますが、「これらの事柄」と訳すことも出来ます。私は「これらの事柄」と訳した方がよいのではないかと思います。つまりイエスはペトロに、「ペトロよ。お前は他の使徒たち、ヨハネやヤコブが私を愛するよりも強く私を愛しているのか?」と聞いたのではなく、「ペテロよ。お前はこれらの事柄、つまり漁の仕事やガリラヤでのかつての生活よりも、私と私の与える召命を愛するか」と聞いている、ということです。実際、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えたペテロに対し、主イエスは

私の小羊を飼いなさい。

と言われました。主は、私を愛しているなら、私があなたに与えた召命、任務を忠実に果たしなさい、と語られたのです。そして、イエスがペテロに与えた召命とは、主の群れを養うことでした。

それから主イエスは同じ質問を三度もシモン・ペテロにしました。それはかつて三度も「イエスを知らない」とご自身を否んだ彼から、三度「あなたを愛します」と肯定的な言葉を語らせ、彼を再び使徒として立てようというイエスの深い愛と配慮から出た言葉でした。しかし、ペテロのほうは三度も同じことを聞かれ、むしろ悲しくなってしまいました。かつて自分が主を三度否んだことを思い出したのでしょう。そしてこう言いました。

主よ、あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。

ペテロは「主よ、わたしを信じてください」とは言えませんでした。自分の恥ずかしい過去から、もう自信たっぷりに語ることはできませんでした。むしろ、ペテロはここで主イエスは何でも知っておられるという主への信頼を表明します。私があなたを愛することは、私以上にあなたの方がご存じなのです、と。このペテロの言葉に対するイエスの言葉に注目しましょう。かつて、命を捨てることになってもあなたについていきます、と語ったペテロに対し、イエスはこう言われました。

まことに、あなたに告げます。あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。

ペテロはつまずく、とはっきり予告したのです。しかし今や主は、ペテロ最後まで自らの召命に従いぬき、殉教することを告げたのでした。

まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。

ペテロは後にローマで、暴君ネロによって逆さ十字の刑で処刑されたと言われています。イエスはペテロに、彼が召命を果たし終え、どのように死ぬことになるのかを告げたのでした。イエスを三度否んだペテロは、ついに神の栄光を現すような死に方をすることになるのです。

 さて、ここで話題はもう一人の人物に移ります。このヨハネ福音書の作者、「主に愛された弟子」と呼ばれる人物です。自分の運命を聞かされたペテロは、いつも主のそばにいて、主から特に目をかけられているように思えるこの人物が一体どうなるのかを知りたくなり、こう尋ねました。

主よ、この人はどうですか。

こう尋ねたペテロの気持ちは分かりますが、これは無用な問いでした。人にはそれぞれ神から与えられた召命があり、私たちは自らに与えられた使命に忠実に生きればよいのです。他の人がどうとか、そういうことは詮索すべきことではないのです。この「主が愛された弟子」にはペテロとは異なる召命が与えられていました。ペテロは大牧者となり、ついにはその死によってイエスを証ししますが、この主に愛された弟子は、「ヨハネ福音書」を書き残すという重要な召命を果たし、殉教せずに小アジアのエペソで死んだと言われています。しかし、ではペテロとこの弟子と、どちらがより大きなことを成し遂げたのかとか、そういうことは問題ではありません。肝心なことは、各人が自分に与えられた使命を忠実に果たすことなのです。

私たちは、いつも自分のことを他人との比較で考えてしまいがちです。私はイエス様にどれだけ愛されているだろうか。あの人よりも私はイエス様に愛されているだろうか。また私は誰よりもイエス様を愛しているのだろうか、と。自分とイエス様との関係を他の人との比較ではかろうとするのです。しかし、イエスはそんなことは余計なことだとおっしゃいます。主はそれぞれの人に、それぞれの使命、召命を与えておられます。私たちが自分に与えられたそれぞれの任務を精一杯果たすことで、神の御国は力強く前進していくのです。

3. 結論

 今日はペテロが再び主から召命を再確認され、使徒として立ち直るために励ましを与えられる場面を読んで参りました。後にペンテコステの日に、イエスはペテロに聖霊のバプテスマを授け、召命に相応しく生きる力をお与えになりました。三度も主を否み、自信を喪失して自分を見失っていたペテロに主は優しく、そして力強く、彼がなすべきことが何であるのかを告げられました。しかし、他の弟子にはどんな召命が与えられているのかについてはお答えになりませんでした。

 私たちにもそれぞれ召命が与えられています。しかし、自らの召命を他の人のものと比較するのは意味のないことです。問題は、聖霊によって強められ、それぞれの召命を忠実に果たし、主に従っていくことなのです。

お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。御名を賛美いたします。今日は自信を失っていたペテロを主イエスが再び召し、彼に力強く生きていく力を与えられる場面を学びました。私たちも時として主からの召命を見失い、迷いの中を生きることが多いものですが、そのようなときは、ペテロにしてくださったように、私たちをも励ましてください。この週も、それぞれの持ち場で主を証ししていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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