だれが一番偉いか
マルコ福音書9章30~41節

1.序論

みなさま、おはようございます。これまで何度かお話ししていますが、私たちは今、マルコ福音書において、旅の途上にいます。これは文字通りの意味で、イエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムへと向かう旅の途上にいるという意味です。この旅にはとても重要な目的がありました。それはイエスが弟子たちの盲目を癒す、あるいは閉ざされた目を開くということです。これはもちろん比喩的な意味においてであり、弟子たちには肉眼になにか病気や問題があったということではなく、霊的な目が閉ざされていたということです。別の言い方をすれば、イエスは旅の途上で、大切なことが理解できていない弟子たちに、神の国を受けるにふさわしい人になるための教育を施していたのです。前回の悪霊払いの奇跡の箇所では、自分たちの力について少し高慢になっていた弟子たちを謙虚にさせるというイエスの意図について学びましたが、今回の箇所でもイエスは弟子たちに大事なレッスンを与えます。それはステイタス、序列の問題についてのレッスンです。

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怒るイエス
マルコ福音書9章14~29節

1.序論

みなさま、おはようございます。先週は旧約聖書からのメッセージになりましたが、今日から再びマルコ福音書の講解説教に戻ります。さて、マルコ福音書を三幕から成るドラマに見立てるならば、私たちは今第二幕にいるというお話をしてきました。マルコ福音書の第一幕は「ガリラヤ編」、第三幕が「エルサレム編」とするならば、その間にある第二幕は「ガリラヤからエルサレムへの旅」を描いているところです。この第二幕の特徴の一つは、イエスの奇跡の記述がほとんどないことです。ガリラヤでは多くの驚くべき奇跡を行ったイエスですが、このエルサレムの旅においては旅の始まりと終わりに目の見えない人を癒すという奇跡を行う以外の奇跡は行いませんでした。しかし、一回だけ例外があり、それが今日の箇所です。

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亡国の預言者エゼキエル
エゼキエル書33章21~33節

1.序論

みなさま、おはようございます。これまで毎週マルコ福音書を読み進めていますが、今後は毎月の最終週には旧約聖書からメッセージを取り次ぐことにします。そして、今回はその一回目になりますが、預言者エゼキエルを取り上げます。私は当教会に着任した時に最初にエレミヤ書から講解説教をしましたが、エレミヤとエゼキエルは同じ時代に生きた預言者です。とはいえ、エレミヤが預言者としての召しを受けたのが紀元前627年で、エゼキエルの召命は紀元前593年ですから、二人の召命には35年ぐらいの開きがあります。このようにエレミヤの方が年上だったのですが、しかし二人の預言者としての働きには重なり合う時期がありました。それがエルサレムの滅亡する直前の時期でした。この二人の預言者の人生において、最も忘れがたい年はいうまでもなくエルサレムが陥落し、エルサレムの神殿が破壊された紀元前587年でした。日本でいえば原爆が投下された終戦の年、1945年のような悲劇の年です。エレミヤとエゼキエルの預言は、滅びに突き進むイスラエル民族に向けられたものでした。

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変貌山の出来事
マルコ福音書9章2~13節

1.序論

みなさま、おはようございます。ここ数週間、マルコ福音書の中でも非常に大切な箇所を読んで参りましたが、今日の箇所も大変有名な箇所です。ルネサンスの代表的な画家であるラファエロの代表作であり、白鳥の歌でもある「キリストの変容」という有名な絵が描いているのはこの場面です。この傑作はヴァチカン美術館にあり、私も実際に見たことがありますが、非常に強い印象を受ける作品でした。ただ、ラファエロの絵画を見て感動することと、マルコ福音書におけるこの出来事の意味を理解することとは別物です。今朝は、なぜこの出来事がこの場面で起こらなければならなかったのか、その文脈をよく考えてみたいと思います。

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おのおのの十字架
マルコ福音書8章34~9章1節

1.序論

みなさま、おはようございます。先週はマルコ福音書を三幕のドラマと考えるならば、ペテロの告白というターニング・ポイントによってドラマは本格的に第二幕に入ったというお話をしました。これまでイエスはガリラヤで大きな奇跡を行いながらも、ではイエスは究極的には何を目指しているのか、彼の人生の目的や使命が何であるのかを明確にはしてきませんでした。もちろんイエスは神の王国の到来が近いこと、神の支配の実現がもうすぐだということを人々にアナウンスしてきましたのですが、神の支配が地上世界で実現するためにイエス自らが果たす役割が何であるのかをはっきりと伝えてこなかったのです。それは詰まるところ「イエスとは誰なのか?」という問いです。イエスが神の支配の到来を人々に伝えるメッセンジャーに過ぎないのか、あるいは自らが人々を率いて神の支配を実現させていくリーダー、つまり王なのか、こういう疑問が弟子たちの間にもあったのです。

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ペテロの告白
マルコ福音書8章22~33節

1.序論

みなさま、おはようございます。早いもので、マルコ福音書からの説教も、今日で24回目になります。そして、今日の箇所からマルコ福音書は新しい展開に入ります。マルコ福音書を、イエスを主人公とするドラマと考えるならば、それは三幕から成るドラマだということができます。第一幕は、これまで読んできた箇所で、それはイエスの「ガリラヤ編」です。この第一幕では、主人公であるイエスの目的が示されました。イエスの目的、使命とは、「神の王国」の実現、神の平和な支配をこの地上世界に打ち立てるということでした。この目的を達成するために、イエスは人々を悪霊の支配から解放し、また病を癒して人々に生きていくための活力を与えました。そして今日の箇所から第二幕が始まります。第二幕の内容は、イエスと弟子たちのガリラヤからエルサレムへと向かう旅です。第二幕はエルサレム入城直前の10章の終わりまで続きます。そして第三幕は、イエスのエルサレムでの最後の一週間です。

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まことの休息
マタイ福音書11章25~30節

1.序論

みなさま、おはようございます。そして、新年おめでとうございます。1年の計は元日にあり、と言われますが、1年の初めの礼拝とそのメッセージは今年の方向性を決める大切なものです。そこで今日の説教は、今年1年間当教会を導いていく年間主題聖句について考えてみたいと思います。私たちは昨年の教会総会に年間主題聖句を選びましたが、それは大変有名なマタイ福音書11章28節です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この一節が含まれている11章25節から30節まで、今日はそこからメッセージを語らせていただきます。この28節はあまりにも有名なので、前後の文脈に関係なくこの一節だけが取り出されて語られることが多いのですが、英語でコンテクスト・イズ・キング、つまり聖書のみことばの意味を決定するのはその前後の文脈だという格言が示すように、この28節の真の意味は、イエスが語られた文脈全体から判断されるべきです。

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新しいモーセ
マタイ福音書1章18~2章21節

みなさま、クリスマスおめでとうございます。私たちはこれまでずっとマルコ福音書を読んで参りましたが、マルコには主イエスの誕生物語はありません。イエス誕生の次第を詳しく述べているのはマタイとルカの二つの福音書なのですが、昨年のクリスマス礼拝ではルカ福音書からメッセージをさせていただきました。そこで今年のクリスマス礼拝ではもう一つの誕生物語、マタイ福音書からメッセージをさせていただきたいと思います。

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エリヤ:神の人
第一列王記17:17-24
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書箇所は預言者エリヤが「よみがえりの奇跡」を行った箇所です。しかし、この聖書箇所にはこだわらず、エリヤという預言者は何をしたのか、またその後、エリヤはどのような人物として見られるようになったのか、もあわせ見ていきたい、と思います。

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まだ悟らないのですか
マルコ福音書8章1~21節

1.導入

みなさま、おはようございます。段々と寒くなり、アドベントの期間らしくなって参りました。さて、今日の聖書箇所についてはデジャブといいますか、あれ、ここは前に読んだことがある、とお感じになったかもしれません。それもそのはずで、6章でもイエスがたった五つのパンと二匹の魚から五千人分の食事を作り出したという奇跡の記事があったからです。ちなみに、マルコ6章に記されている五千人の給食の記事は四福音書すべてに記されている記事です。それがわざわざ指摘するようなことなのか、と思われるかもしれませんが、四福音書すべてに登場する奇跡というのは実は非常に稀なのです。共観福音書と呼ばれるマルコ・マタイ・ルカの三福音書は互いによく似ていますが、ヨハネ福音書はとてもユニークで、共観福音書とは多くの点で異なります。ヨハネ福音書にはイエスの奇跡は七つしか記されていませんが、その多くは共福音書には登場しません。例えばカナの婚礼で水をワインに変えた奇跡や、有名なラザロの復活はヨハネ福音書だけに記されている奇跡です。このように、共観福音書に記されている奇跡と、ヨハネ福音書に書かれている奇跡とは、重なり合わないのです。しかし、そのヨハネ福音書もこの五千人の給食の記事は記しています。それだけ重要な奇跡だったということです。

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